忠犬ハチ公はなぜ有名に?動物行動学者がハチを通してヒトと動物の関係を見直してみる

渋谷駅で飼い主の上野先生を待ち続けたといわれるハチ公。そのハチ公が誕生して、2023年でちょうど100年となったそうです。100年を記念して、様々なイベントや記事が紹介されました。ハチ公は世界的にも有名な秋田犬になりましたが、ここまでなぜハチ公が有名になったのか、そして本当の姿のハチ公とは?ということを動物行動学とヒトと動物の関係性から見直してみたいと思います。

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記事の作成者:動物応用科学科 菊水健史先生

ハチは上野先生といつでも一緒だった

ハチは秋田犬を代表する犬です。1923年の11月に秋田県にある北秋田郡二井田村(現在の大館市)で生まれました。八頭の兄弟で、父の名は「オオシナイ(大子内)」、母の名は「ゴマ(胡麻)」で、赤毛の子犬でした。両耳は直立し、尾は左巻き、生まれたときは両耳とも立っていましたが、飼い主の上野先生を待っているときに野犬と大喧嘩、その際に噛まれたことによる怪我だといわれていますが本当はわかりません。渋谷駅のハチ公は左耳が倒れていますが、大館市と東京大学の農学部にあるハチ公の像では両耳が立っています。

ハチは生まれた翌年に東京帝国大学農学部(現在の東京大学農学部)教授、上野英三郎にもらわれていきました。上野先生は大の犬好きで、ハチと一緒に食事をしたり、部屋でも常に一緒にいたといわれています。自宅がある渋谷区の松濤から渋谷駅まで一緒に向かっていたといわれてます。ちなみに当時の日本では、東京の都心でもイヌは半放し飼いです。ハチは渋谷駅まで上野先生に連れられて歩いた後、綱を外されて自分で歩いて帰っていました。まだまだ人が犬をしっかり24時間管理する、という今の飼育方法とは大きく異なる飼い方が通常の時代でした。

上野先生との突然の別れ

飼い主である上野先生がまだハチが2歳だった1924年に突然亡くなりました。ハチは、上野先生の死後3日間は何も食べなかったといいます。1年間しか一緒に暮らしていなかったハチですが、その後も上野先生と歩いた渋谷駅までの道のりを自分で歩いて(自宅でも半分放し飼いでした)、しばらく渋谷駅の改札で上野先生を探すような様子をみせ、そのうち自宅に帰る、そんな生活を約9年続けたといわれています。

新聞記事掲載でハチは一躍有名に

上野先生が亡くなった後も渋谷駅前で飼い主の帰りを毎日待ち続けたハチの姿は、日本犬保存会の初代会長・斎藤氏によって書かれた新聞の記事に取り上げられました。その記事が人々に感銘を与え、有名に。その後様々な方から「忠犬ハチ公」と呼ばれ、親しまれるようになりました。一時期は子供たちのいたずらにされたり、らきがきされたり、通行人にたたかれていたようです。そんな危ない目にあってもなお、渋谷駅で何かを待ち続けるハチの姿は、まさに忠犬の名がふさわしい犬、忠誠心のお手本ともてはやされていきました。

上野先生が亡くなった後のハチの生活

ハチは上野先生の妻の親戚が日本橋で呉服屋を営んでおり、そこへ預けられましたが、その後浅草の知り合いの家に移動します。しかし、ハチは散歩中に飛び出したり、家から抜け出したりとなかなかうまく飼育できませんでした。逃げ出したあと渋谷で見つかったりしています。そのためハチは再び渋谷の上野先生の自宅に戻ることになります。

渋谷に戻ったハチはやんちゃがひどく、次に渋谷の近く住んでいた、上野先生のところで植木職人として働いていた小林さんに預けられました。小林さんは小さい頃からハチと仲良くしていたので、ハチもすぐになじんだそうです。この頃から渋谷駅で、上野先生が帰宅していた時間くらいになるとハチが出現していたことが目撃されています。ハチが渋谷駅を訪れる際には、途中の上野先生のお家を眺めていたという目撃情報もありました。ハチは白い犬でしたが、毎日渋谷駅に来ていたためしだいに汚れ、なんどか野犬狩りにて捕獲されることもありました。

当時、犬は「安産の象徴」とされており、身に付けていた胴輪を心ない人から「安産のお守り」としてよく盗まれていたそうです。ただ、ハチを愛する方が次第に増え、近くの飲食店で購入したものをハチにおすそ分けしたようです。そんな渋谷のアイドルだったハチですが、上野先生が死去して約10年がたった1935年、その短い生涯に幕を閉じました。

「ハチはほんとに待ち続けた?」を動物行動学的に考える

ハチ公は2歳から亡くなる10年間、渋谷駅で上野先生を待ち続けた、と言われてますが、これは本当でしょうか?動物行動学的に考えるとちょっと難しいです。動物が何かの行動を繰り返すときにはその行動をしてから何らかの報酬(ご褒美)が必要です。例えば、犬がお手を覚えると、お手をしたときに飼い主からおやつをもらったり、なでてもらったりというご褒美です。これは専門用語で強化子と呼ばれるものです。もし強化子がなければ、その行動は次第になくなっていきます。なので、「上野先生に会える!」というご褒美のために渋谷駅で待っていたとして、上野先生が改札を出てきてくれると、駅で待つ行動は維持されます。ところが待てど待てど上野先生に会えないと、次第に駅で待つことはなくなるはずです。おそらく最初は「上野先生をお迎え」と思って渋谷駅に向かっていたハチですが、後半はおそらく別のご褒美、たとえば声をかけてもらうとかおやつをもらうとか、があっただろうと考えるのが妥当です。

ハチの行動から日本人の姿が見えてくる

世界的にも人気が高まっている秋田犬。その特徴として、朴訥として、端麗でありながら力強さと俊敏性を感じさせる外見とともに、強い信念と動じない態度、飼い主に忠誠を誓い、敵に対しては命も惜しまず、その一方で喜びはかみしめ、うれしくてもはしゃがず、辛くともその感情を隠して耐え忍ぶなどのふるまい、が思い浮かびます。そこには秋田犬と飼い主との“かけがえのない絆”ともいうべき確固たる関係が存在するのでしょう。こうした日本犬の特徴は、日本人と日本犬の共生の歴史そのものといえます。

秋田犬の遺伝的な特性として、現生する犬種の中では、比較的オオカミに近い「古代犬」に含まれています。このことは、日本人が秋田犬を他の犬種と混血にせず(大型化するときに混血にしたことはわかっていますが)、わりと自然に任せて交配させてきた歴史の産物といえます。そもそもハチがいた100年ほど前の日本では、イヌは基本放し飼いであり、洋犬もまだ多くは導入されていませんでした。飼い主が犬を選びますが、犬もまた飼い主を選びました。上野先生の飼い犬になったハチはその他の方にはあまりなじまず、脱走したのはそのせいかもしれません。そしてそれは日本文化の表れでもあります。ヒトと共に移動し拡がっていったイヌたちの行動や気質には、その地域の人々の生き方や生活が色濃く投影されているということです。つまり、秋田犬などの日本犬から、ともに過ごしてきた日本人の姿が見えてくるのです。

あまり無理強いして犬をコントロールすることはなく、犬にイヌの生き方を選ばせる、そんな風習を現在の日本犬、秋田犬から垣間見ることができます。それほど、犬は不思議な存在といえるでしょう。